@article{oai:soka.repo.nii.ac.jp:00040530, author = {牛田, 伸一 and USHIDA, Shinichi}, issue = {73}, journal = {教育学論集}, month = {Mar}, note = {( 1 )「風向きの変化(Tendenzwende)」(1)の中の陶冶(Bildung)  「教育(学)的な決定はどのような価値を志向すべきか」。これは、あのWolfgang Klafkiが1985年にハノーファー哲学・政治アカデミー(Philosophisch-Politische Akademie in Hannover)から依頼された講演テーマであった(Klafki 1985:S. 31)。事情の詳細 は筆者には不明ではあるが、この講演それ自体は実施されることはなかった。それで も、彼の陶冶理論的・教授学的な遺産を確認するとともに、その死を悼む論文集の中 に、上記の問いかけの回答を参照できる。本小論の問題関心を明確にするために、ま ずは85年当時に書かれた彼の遺稿を追跡することにしよう。  冒頭の問い「教育(学)的な決定はどのような価値を志向すべきか」にKlafkiは、 教育(学)的な決定は陶冶を志向すべきだと回答している(同上:S. 37)。  Klafkiによると、陶冶概念は1770年から1830年の間に様々なヴァリエーションで展 開し、この時期からドイツ語圏の教育(学)的な思考の中心概念になったという。そ こにはカント的な啓蒙の理念が込められているとされる(同上:S. 38)。彼が見ると ころ、啓蒙を内包した陶冶概念には、疑問視されるべき伝統、占有関係、そして支配 関係に対する批判が含まれている。H.-J. Heydorn、M. Horkheimer、Th. W. Adorno、 J. Habermas、H. Blankertz、K. E. Nipkowの論稿を脚注に指示しつつ―宗教教育 学を専門としたNipkow以外はフランクフルト学派系列に属する―Klafkiは、陶冶 概念の中に社会変革の端緒を求めている(同上:S. 39 f.)。  「陶冶は個人の自己決定能力と共同決定能力として、そして社会的連帯能力として 理解されなければならない」(同上:S. 40)。筆者の解釈に従えば、Klafkiにあの社会 変革の観点があったがゆえに、この陶冶は総合制学校(Gesamtschule)への制度改 革を志向することになる。これによって陶冶は、あらゆるものにとっての陶冶 (Bildung für alle)という意味で、「一般的」だと形容される。またこの観点があるが ゆえに、いわゆる鍵的問題(Schlüsselprobleme)が価値内容の柱として打ち立てら れる(2)。これによって陶冶は、平和、環境、貧困、労働、そして民主主義など現在と 将来の私たちが共通して変革すべき問題を扱うとの意味で、「一般的」だと形容され ている。彼はこの上記2 つの「一般的」な陶冶のメルクマールに加えて、これを更に 全面的あるいは多方的という意味において「一般的」だと形容し、そのための多様な 学習対象へのアクセス可能性を要請している(同上:S. 42-48)。そして最後に言及す るのが、彼が陶冶の範疇には属さないが、それでも断念し得ないものとして考える 「道具的な知識、能力、そしていわゆる2 次的な美徳[Sekundärtugenden]」(同上:S. 50)である。彼は次のように述べている。 しかし、決定的に重要なのは、そのような諸要素の位置価値を正しく規定するこ とである。道具的な知識、能力、技能、2 次的な美徳が話題になっているのだが、 これらはそれ自体として根拠あるまた責任ある活用については何も語ることはな い。人間的、民主主義的、平和的、そして人間同士の目的や行為関連のために役 立てられるのとまったく同様に、競争的闘争にも、他者支配にも、搾取にも、不 安の増大にも、啓蒙、共同決定、機会均等などの妨害にも用いられ得る。それゆ え、もし道具的なものをいっそう洗練された陶冶目的と陶冶プロセスの前提に指 定して、これに事実的かつ時間的な優位を割り当てるならば、それは誤りである し、取り返しのつかない結果となり得るだろう。これは現在ではいわゆる教育政 策的な変化[Wende] のあらわれの中で―「教育への勇気[Mut zur Erziehung]」と言われるボン・テーゼにおいてそうであるのだが―で当たり 前に起こっている。それは保守主義への変化であり、復古主義への変化の中で起 こっている。…[中略]…これら[道具的で2 次的なもの]は、解放的な目的設 定、内容、そして能力との関連において習得されるべきである。すなわち、これ らは学習者によって道具的なものとして必要だと洞察され得るように習得される べきであり、根拠ある、人間的な、そして民主的な原理から引き離されることな く習得されるべきである。(同上:S. 48 f. 下線・角括弧内は引用者)  上記の引用から読み取られ得ることは、1985年当時のKlafkiにとって、「教育(学) 的な決定はどのような価値を志向すべきか」との問いに対する「陶冶を志向すべきで ある」との回答が、保守主義や復古主義への変化≒教育政策的な変化との緊張関係あ るいは対抗関係の中で表現されていることにある。そしてこの変化の事例として挙げ られるのが「教育への勇気」とそこで宣言された9 つのボン・テーゼであり、そこで は少なくとも彼には、陶冶が2 次的な美徳への教育(Erziehung)に取って代わられ ようとしていると見られていた。その証拠に彼は、「私がここでいくつか概要を略図 した構想が、私たちの社会―私たちのだけでない社会―における現在の支配的な 風向きに対する緊張の中にあることは、私にはもちろん意識されている」と述べると ともに、「教育(学)的に決定する際には、どのように現在支配的な風向き(そして「変 化」)に可能な限り同調できるか、というのは私のテーマではないし、そのようなテー マだったのなら、私は講演することもなかっただろう」と自己の教育(学)的、ある いは政治的な立ち位置を結びとして率直に語っている(同上:S. 50)。 ( 2 )「教育への勇気」とは  本研究の主題である「教育への勇気」は、1978年1 月9 日・10日にドイツのボンに 位置するバード・ゴーデスベルク科学センター(Wissenschaftszentrum Bonn-Bad Godesberg)で開催された教育に関するフォーラムである。翌年79年には報告書が刊 行されているが、「『教育への勇気』の進行について可能な限り実際の模様を示すため に、この本の構成は会議の経過に従っている」という(Mut zur Erziehung 1979:S. 6 以下MzEと略記する)。これを参照すると、フォーラムの内容とその順序はおおよ そ右下の表にまとめることができる(MzE:S. 3 の目次を参考に筆者作成)。  まえがきの筆を執った1978年1 月当時のバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)文部大臣のWilhelm Hahn、講演にコメントを寄せたバイエル ン州(Freistaat Bayern)文部大臣のHans Maier、そして市議会議員のAlois Graf von Waldburg-Zeilは、キリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union Deutschlands、以下CDUと略記)/キリスト教社会同盟(Christlich-Soziale Union in Bayern、以下CSUと略記) の政治家である。挑戦の講演者のSpaemannは、 Habermasによって「モデルネ以前4 4 のさまざまな立場への回帰を推奨する」「老年保4 4 4 守派4 4 」の哲学者だと見られている(ハーバーマス著/三島訳 2000:41頁)。更に、社 会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands、以下SPDと略記)の支持者で あった哲学者のLübbeも、『知識人の悲惨―連邦共和国における左翼理論』の著者 である政治学者のSontheimerも、「『常識』なるものを重視し、それによって支えら れている国家の諸制度への信頼に満ちた委任を要求する」とされている(三島1991:225頁)(3)。 教育政策における変化を講演した政治学者のSchwanは、当初はSPDに所属していたが、78年10月に SPDのPeter Glotz議員が大学で「共産主義の扇動と左翼社会主義の行動同盟を容認し、 推進していると非難」されたことをきっかけに、これ以後CDUに鞍替えしている (Berufliches 1978)。  このように、「教育への勇気」の登壇者の多くには、所属する党派や語られること についてそれぞれ差異はあるものの、三島憲一の枠組を援用するならば、「新保守主 義という名称に包括される思想の動き」が通底していると捉えることができる(三島 1991:224頁)(4)。 ( 3 )先行研究  フランクフルト学派の批判理論の影響下にあったKlafkiにとっては、「教育への勇 気」とその9 つのテーゼは、陶冶を押しのける保守主義や復古主義への転換の象徴で あったが、しかしわが国においてこれらが、必ずしも彼によって評価されたような 「風向きの変化」として語られていたわけではなかった。  筆者の追跡によれば、「教育への勇気」をわが国に最初に紹介したのは、ドイツの 教育学者によるものであった。1978年10月に来日したWalter Asmusである。「ドイツ 連邦共和国における道徳教育の現況」と題した講演が上智大学と玉川大学で行われて いる。そこで彼は批判理論が浸透した解放的教育学の終焉を語り、それに代わる伝統 回帰の宛先としてJ. F. Herbartを参照するとともに、道徳教育の条件を素描してい る。その条件をボン・テーゼを引用することで示し、これらが西ドイツの「道徳教育 綱領」だと述べている(アスムス著/金子訳 1979:111-129頁)。初めて邦訳された9 つのテーゼを是認しながら、彼は変化した風向きに順風を送っていた。  順風でも逆風でもない、「教育への勇気」のわが国における紹介記事は、管見の限 りであるが、天野正治(1984)が初出である。彼は西ドイツにおける戦後の教育政策 の歩みをまとめた後で、SPDとCDU/CSUとの教育政策の対立を整理する。そして 「教育目標をめぐる対立」の一例として「教育への勇気」を紹介している。そこでは、 9 つのボン・テーゼのうち、3 、4 、6 、そして8 だけが訳出されているが、それば かりでなくテーゼそれぞれの直後に、チュービンゲン声明によるアンチテーゼも併記 されている(5)。この声明の邦訳は、たとえ一部に過ぎないとはいえ、これが初めてと なる。ボン・テーゼとチュービンゲン声明の全訳は、Christoph Führ(1988): Schulen und Hochschulen in der Bundesrepublik Deutschlandの邦訳出版を待たなけ ればならない(フュール著/天野・木戸・長島訳 1996)。  「教育への勇気」に当時のカリキュラム政策転換の「下地」の役割を見るのが原田 信之である(6)。彼は「保守派と革新派との対立が先鋭化する中、バーデン・ヴュルテ ンベルク州では、フォーラム『教育への勇気』の開催後、人間的な育成にかかわる教 育目標を復権させる改革に着手し始める」として、これをいわゆる教育の現代化から 人間化への呼び水だったと捉えている。新保守主義が教育の人間化を呼び込んだとの 見方である。「教育への勇気」の中身それ自体については、9 つのボン・テーゼに共 通する表現様式の「……に反対する」の部分までが、そしてチュービンゲン声明の1 と3 の一部だけが紹介されている(原田 2010:222-223頁)。  変化する以前の風向きから「教育への勇気」に言及するのが、宮崎俊明(1986)で ある。同フォーラムは「教育におけるイデオロギー・レベルでの実践優位と理論不信 といった方向づけのマニフェストとなり、先行した教育学理論にはその社会学的一面 性を、技術論にはそのナイーブさを責める一方、歴史的伝統的事実と哲学的人間学的 理論を重視し、そこでの多元性と効率性をむしろ『理論』の検証基準や成立母体とし た」と述べ、直後に講演者の1 人である教育学者のAurin(MzE:S. 35 ff.)の参照指 示が打たれている。更に彼は「教育への勇気」には「理論的なものへの敵意や教育学 の追い落としの素顔がみえる」として、これはHabermasの眼には「『反啓蒙のプラッ トフォーム』と映っている」という(宮崎 1986:51-52頁)。  これまでの先行研究から看取できるのは、「教育への勇気」が言及される場合には、 それが変化した風向きの順風であれ逆風であれ、あるいは無風であれ、Aurinを参照 した宮崎の数行を例外として、いずれもボン・テーゼとチュービンゲン声明の一部が 紹介されるにとどまっていて、同フォーラムの背景や内容の細部4 4についてはほとんど 不明なままであった、ということである。  近年これに進展が見られる。確かに「教育への勇気」の背景や詳細は、教育学関連 学会の自由研究発表において論究されてはいたものの(牛田 2018)、しかし刊行物と して公にされてはいなかった。これが参照可能になったのは眞壁宏幹(編)『西洋教 育思想史(第2 版)』(慶應義塾大学出版会、2020年3 月)による寄与が大きい。同書 第1 版(2016年4 月)を紐解くと、第12章「第2 次世界大戦後の教育思想と教育学」 の第1 節「戦後社会と教育思想」には、1 「民主主義化と戦後教育」、2 「フランク フルト学派と教育思想・教育学」、そして3 「解放的教育学(批判的教育科学)」が収 められているが、第2 版では3 に続いて、4 「保守派の教育論」が新たに加えられて いる。この4 では「教育への勇気」の概要が、SpaemannとTenbruckを参照すること で紹介されるとともに、同フォーラムに対する教育学からの反応も簡潔に整理されて いる。この項目を担当した森祐亮は、同年9 月にGünther Buckのヘルバルト解釈と 保守知識人の教育論との親和性の究明を試みるが、この保守知識人として同定される のが「教育への勇気」である。ここでもSpaemannとTenbruckが参照され、「文化や 伝統は教育にとって否定的なものではなく、必要不可欠なものと捉える姿勢である。 …[中略]…彼らはそのような立場から解放的教育学や教育の科学化といった事態に 警鐘を鳴らした」として、「保守知識人の思考図式」がまとめられている(森 2020: 173頁)。  本小論の目的は、「教育への勇気」の背景と詳細を究明することにある。それゆえ ここでは、同フォーラムの輪郭を浮き上がらせる端緒となった2020年以降の研究の補 完が意図されている。「教育への勇気」はいったい何を批判していたのか。あの Klafkiが「きわめてドグマ的」(Klafki 1989:S. 152)だとまで酷評した同フォーラム は何を主張していたのか。MzE(1979)を一次資料として参照し、これら2 つの問 いに回答を与えることが、本小論の目的を達成するための検討の課題である。}, pages = {143--169}, title = {「教育への勇気」は何を批判し、何を主張したのか 1970-80年代のドイツ学校教育改革における「風向きの変化」に関する研究}, year = {2021} }